『為に生きる』

第十二話「今度こそはの再出発」

今度こそはの再出発

 

1985年、40歳を迎えていた私は、もはや失敗は許されない状況で1歩1歩を確実に、地に足を付けた仕事、商売で真の事業に挑戦しようと決意したのでした。

 

そして、大阪浪速区元町のアパート1階で広さは7坪しかないのですが、人の良い大家さんにお会いすると「好きに工事していいよ」とのお言葉を頂くのです。

私は安くお借りするためにと、もとは店舗や事務所ではない、道路に面したアパートの1階の1室をスタートの場と決めたのです。

早速、工事の見積もりを取るのですが、大変な金額になることが判り、自分自身の手で工事にかかります。

早速、トラックを借りてきて、窓を潰し、畳や木材を放り出し土間をコンクリート打ちして、玄関ドアがシャッター1枚の店舗事務所が最小限の費用で完成、電話を置くデスクと折りたたみ椅子2本で商売を開始する事となります。電話受け業務は近所のおばちゃんが立候補してくれて即採用し、準備は万事OKとなります。

 

しかし、新聞広告や電話帳広告するにもお金が無かったので、縦長の手書きのビラを作成し朝の4時くらいから、市内の電柱やガレージの壁などに貼って回るのです。ビラには「何でも買います、家具電化贈答品」の文字、紙ではすぐにダメになるので、やはりプラスチック板の看板に変えて軽トラックで出かけ、貼ってまわったのです。朝の8時前後には自宅に帰ってきて、子供を保育園に連れていき、そして、店に出勤するのです。

 

またポステイング(ビラ配布)も力を入れたのですが、お問い合わせの反響はほとんど無く、唯一私が取り付けた貼り看板広告を見て、新聞広告会社代理店の営業マンから連絡があり、安くて有効な新聞広告を提案されたのです。看板は私が貼って回っていた事を話すと、感心してくれて、広告料の支払いを2か月間先延ばししてくれると言うのです。大変な時期だったので非常に有難く心から感謝したのでした。

もちろん貼り看板はその後も続けて、朝から貼ってまわったのです。

その時の広告代理店への支払いは20万円前後でしたが、後にチラシ広告や電話帳広告を含めると、月額200万円以上の広告料の取引となり、喜んでいただくことになります。

 

それをきっかけに、仕事が徐々に増えはじめ、少しずつ忙しくなってきます。私は相変わらず軽トラックに乗っていたのですが「2軒隣の自動車屋さん」から、下取りしてきた古い2トントラックを10万円で売ってあげるという有難いお話に、「月1万円の月賦にして下さい」と言うと、「えっ、10万円が月賦か?」と言って苦笑いされたけれど、あたたかく了承して頂いたのでした。(その後3か月は1万円で4か月目には7万円をお支払いしたのです)

 

その時は、銀行取引が皆無の状況で、運転資金、仕入れ資金にも事欠く始末で、高額な買取があると、お金の工面は大変だったのです。

そして、営業スタッフも2人、3人と増え借り店舗も7坪から20坪になり、一気に50坪の小売店舗へと成長を遂げます。

また積立預金の勧誘にパンフレットをもって訪れた可愛い女性行員さんとのご縁で、信用金庫との取引も始め、月に5万円の積立預金を始めます。その後10万円、後には月に30万円の積金が出来るようになります。そうして、少しずつですが信用が高まっていったのでした。そして「2軒隣の自動車屋さん」から2トントラックの新車をローンでですが2台購入するまでになります。

 

当時は「リサイクル屋」と言われて、時には何でも買いますのイメージから「何でも屋」とも呼ばれ、廃品回収屋さんと同じようなイメージで、世間の評価も高くない商売だったかもしれません。

 

それらのイメージを払拭して、次々と入社してきた合計5人のスタッフの為にも、この仕事にプライドを持てるような会社に、「事業」にするために日々努力を重ねたのでした。