『為に生きる』

第十八話「追憶」

追憶

 

私は、小学校の4年生の時、年の離れた姉に連れられて父が入院している神戸の病院に行った時、父が出前のお寿司を取ってくれたのは覚えているのですが、交わした会話は何一つ記憶がなかったのです。

また、もう一度は次の年、父が経営していた冷蔵倉庫会社の事務所を初めて訪れ、その隣の部屋が病室のようになっていて、そこで療養中の父を見たのが二度目で、それが最後でした。病の床に伏しているにも関わらず、仕事の采配をふるっている姿にも、小学5年生の私には、なぜか心寂しい思いだけが残ったのでした。

おかげで、父との思い出はそれしか無いのです。

 

父、政吉は、寺地強平(蘭学者)の息子として広島県の福山で生まれ、幼少の時に神戸に出てきたそうで、生活は貧しく苦学の末に事業を立ち上げ実業家として成功し、全盛時には洋酒の寿屋(現サントリー)の佐治氏とも親交があったそうで、その為かどうか、父が所有していた冷凍倉庫の名称は「壽冷蔵」という名がつけられていたのでした。父母が共に亡くなっていて詳細は定かではないですが・・・。

 

 

父 政吉

 

 

 

母は父との出会いが無ければ私は存在しないわけで、それを思うと私を生んでくれる為にきっと神様がめぐり合わせてくれたのだと、心から有難く思うのです。

そんな私は子供たち3人の為に良き父親であるように努めよう、私はそうでもなかったのですが、子供たちには寂しい思いはさせないでおこう、楽しい思い出をいっぱい作ろう、いや、それ以上に私は人生をかけて子供たちの為に何ができるか、子供たちの為に生きようと心に誓い、今現在も尚、その思いに変わりは無いのです。これと言って趣味のない私は、趣味は何ですか?と聞かれると「3人の子供達」とこたえるのです。

 

母は、明治の人で、代々庄屋の家柄で嵜本兵蔵の長女として生まれ、祖父兵蔵が代々引き継いだ田地田畑や借家を相続し、何不自由無く育ったのですが、私が生まれて2年後の昭和22年の農地改革で農地全てを失い、わずかに残ったのは借家と自宅の土地だけになってしまったのでした。その為、所有財産をすべて処分し大阪下町の借家へと引っ越しするのです。

そして90歳で天寿を全うしたのですが、父が亡くなって数年後、父の所有財産の相続人(亡くなっている

先妻の子5人と私たち2人)の審判が裁判所であったのですが、病に倒れた父に、母が相当な資金援助したのは事実で書いたものもあり、法的にも権利を有する私達に、母は「何も言わずに、財産放棄の書類に印を押して来なさい」と一言、お金は働いて、稼いで得るもので、頂戴するものでは無いとも、普通では考えられない、そんな男気のある、揺るぎのない信念を持った母だったのでした。

 

気力と根性の素晴らしい人で、70歳を過ぎた頃に、転倒し左足の太ももの付け根を骨折してパイプを入れる手術をした時も、すぐに復帰し、2年後にまた転倒、今度は右足の付け根を骨折しパイプを入れる手術で、再復帰したのです。病院で見た母の術後の姿は、二度ともに同じ光景で歯を食いしばって痛みに耐えながら手すりを持ち、必死に歩いてリハビリを続けている母の姿でした。おかげで母は亡くなる前には私の息子達、3人の孫としっかりと手をつないでゆっくりと、楽しそうに歩いている姿が懐かしく目に浮かぶのです。

 

そんな母が私の高校入学が決まった時、学校に提出を求められている戸籍謄本を前に置き、涙を浮かべながら話始めたのです。私は父寺地政吉の子として認知はされているけれど、母の苗字、嵜本家の次男として生まれ、謄本にそう記載されているとのこと。話を聞いた私は、母方の苗字「嵜本」に誇りを持つ事を心に決め、母の思いと生き方に感動し、生を受けたことに心から感謝し、「頂いた人生を大切に生きます」と母に話すと、優しい目でうなずいてくれたのでした。