『為に生きる』

第七話「結婚」

結婚

そして新居も完成し、お仏壇の納入を迎えるのだが、もちろん仏壇店の社長もお見えになり、(社)青年会議所いわゆるJCの入会を勧誘されることとなるのです。聞けば社長は、青年会議所の元理事長だったそうで、「明るく豊かな社会を築くこと」、「地域に貢献」、「自分自身の啓発、開発」など色々と趣旨をお聞きして入会することとなるのです。

 

30歳になったころに、不動産業、建設業、飲食業など多角化経営にて事業を展開し順調に推移する中、例の仏壇店の青年会議所の元理事長が私の会社に遊びに来られ、あれこれ聞かれ、最後に「私の姪っ子と見合いしてやってくれ」との申し入れがあるのです。

お聞きすると、元理事長の長兄さんで、やはり仏壇店を営んでおられる方の娘さんで、10歳年下の22歳、元銀行員ということでお写真も持参されていたのです、それまでの私は独身を謳歌し遊びまわっていたので、この辺で結婚して落ち着こうかと考えていた時期でもあったので、とりあえず「わかりました宜しくお願いします」とお応えしたのでした

 

お話はとんとん拍子に進み、私33歳、妻23歳でめでたく結婚式を挙げることとなるのです。披露宴には青年会議所のメンバーが多数お祝いに駆けつけてくれて、大阪ロイヤルホテルで合計で150人近くのお客様を招きして、盛大に執り行うことが出来たのでした。

 

新居は完成していたのですが、私自身は家財道具を全く購入せずに、妻の嫁入り道具を受け入れることとしたのですが、その嫁入り道具というのが大型トラック2台に家具電化などお道具が満載で、おまけにピアノや乗用車まで持参、ご両親やご親族一同の思いが詰まった荷物や、お道具の数々に身が引き締まる思いだったのを、今も鮮明におぼえていて、忘れることが出来ません。

 

事業のほうも、順調に推移していき5年を経過した頃には青年会議所では、委員長、副理事長、大阪ブロックの委員長会議議長などを歴任することとなったのです。

 

 

 

 

丁度その頃、今なお続く全国わんぱく相撲の第一回をその当地で開催、実行委員長を務め、大成功を収めたのでした。

家庭では幸せにも、3児(年子3兄弟)の父となっていたのです。

年子で3人の息子を育てる妻は並大抵のことでは無く、自転車は前に1人後ろに2人の4人乗りで、走る姿は曲芸師と言われ「凄いお母さん」と地域では有名人だったのです。私も仕事中、車で走っていると、その自転車を追い越す場に遭遇し、感謝の気持ちで頭が下がる思いでした。

 

若くして私と一緒になった妻は、私が子供の面倒を見ないで留守がちだったのにもかかわらず、一切不平不満を言わず、子育てを楽しんでいる様子で、毎日チラシを見て一番安いスーパーのはしごをして回り、生活費がなくなった時だけ申し訳なさそうに私に言ってくる、そんな妻だったのです。

 

 

 

結婚パーティーにて