『為に生きる』

第八話「挫折」

挫折

 

そして、37歳の時。

 

私の事業開始のチャンスを頂き、その後も私を支えて頂き、公私ともに大変お世話になり、私の父親代わりになって下さっていた不動産会社の社長(材木店社長)からお呼びがかかったのです。

社長は余命6か月の「がん」宣告を受けた、ということを悔しそうな顔をされておっしゃったのです。

突然のお話に私は大変なショックを受け言葉も無かったのでした。

そして、お話というのは、社長が所有されている事業用の不動産を全て引き取ってくれないかとの、お話だったのです。

社長にはお二人の娘さんしか居なくて、共にご結婚されており事業を続けることが困難な状態だというお話をされたのです。

 

それらの不動産は、購入に際し相談を受けたのですが、現地を訪れた時に、特別に安価ではなく、道路前が工場の塀で、隣地も工場で大きな現場なのに袋土地で、建売住宅とすると、進入路の問題や取りまく環境が良くないと判断し、購入されるのを、私が唯一反対した分譲住宅用の不動産だったのです。

それでも、社長の心情を察した上で、色々とお話をお聞きし、ここは私しかいない、恩返しさせて頂く為にも、との思いで意を決しお引き受けする事にしたのです。

 

しかし、住宅が売れない時期でもあったので、色々と工夫を重ね当時では珍しい3層式、つまり1階が駐車場で3階建ての建売に挑戦し努力を重ねたのですが、工事費も非常に高くついたので、売価も高くなります。広告チラシを打っても、問い合わせも少なくまったく売れず苦境に陥ります。

おまけに、かねてから計画していた焼肉店「琴茶屋」を環状線駅前にオープン、大きなお店だったので、空調や換気設備などが非常に高くつき、その上、窓際には1/50の蒸気機関車が走るような凝った演出も施したので、投資額も膨大だったこともあり、一気に経営不振に陥ってしまうのです。不動産も多く所有していたので銀行とも色々と協議を重ねたのですが、結果、所有していた不動産全てや本社事務所やレストラン、飲食店、自宅に至るまで全てを提出し、会社を整理することになったのです。

 

私にとって、せめてもの救いは、その時、材木店社長は既にお亡くなりになっておられ、ご心配をおかけすることが無かったということです。

 

そして、それから2年経つと、狂ったような異常な景気のバブルと言われる時代が到来し、不動産価格の急騰を迎えます。その時、もし私が従来通り不動産事業を続けていてバブルがはじけた時には、おそらくは、この時の数倍の負債を抱え、破綻しているだろうし、45歳も超えていて立ち直ることがもっと困難だったと思うのです。

その時の私はその様なことは考えもつかなかったのですが、今思うと、この地で頑張ってバブルを迎えて破綻するよりも、一日も早く、大阪の中心へ行って商売を一からやり直しなさいということだったのでしょう。

 

挫折という言葉を知らなかった私は、40歳を前にして、妻と小さな子供3人を抱え何もかも失い、無一文の裸となってしまったのでした。

そして、妻に「必ず迎えに行くから、辛抱して待っていてくれ」と言って、嫁入り道具と共に実家に帰ってもらうことにしたのです。

妻は私の前では愚痴一つ言わず、何とか明るくは振舞っていましたが、自宅を明け渡す最後の日となった時、保育園も最終日となり、息子を迎えに行った時、涙を浮かべながら保育士の方々にお礼を言い、3人の息子を自転車に乗せて、泣きながら帰っていったそうです。

 

一人っきりになった私は、何をするにも身が入らず、支援も全くなく、気力も薄れかけていたのですが、ここ2、3年行ってなかった福山の父の墓参りに行こうと思い、車を借りて出かけました。まずは事あるごとに、報告に訪れていた箕面にある母のお墓にお参り、そこから広島にある父のお墓に向かうのです。

広島の福山城のそばのお墓に着くと、お花を買うために、立ち寄ったお店の公衆電話が目に入り、妻の実家に電話を入れることにします。

気丈な妻は、平静を装い元気そうで一安心。しかし「パパ元気」「パパ何してるの」「パパ帰ってきて」と代わる代わる3人の息子の元気な声に涙がドット吹き出し、電話を切った時には前が見えないほど涙にまみれていたのでした。

 

父の墓参りを済ませ、帰路、長時間運転しながら、過去のことは忘れ、今日から新しい人生の第一歩を歩むのだと、「絶対 絶対 絶対頑張る 絶対」と声を上げて叫び、心の中でつぶやき続けたのです。

妻と幼い3人の息子の為に、そして、その息子たちに顔向けできるような、尊敬してもらえるような父親になる為に。