『為に生きる』

第六話 「再挑戦」

再挑戦

「観光旅行」から帰ると、不動産取引業の「大和住建」という個人の会社を設立し仕事復帰を試みるのです。「時に24歳」

 

たった一年とチョットなのに状況が大変な変化をしていて、私が携わっていた数社の不動産の企業は組織が出来上がっており、仕事を頂ける会社が皆無の状況でした。それからは毎日会社訪問などをするのですが、ほとんどが相手にされず時間だけが経過していきます。

 

収入も無く、3か月ほどが経った頃、会社訪問させていただいた時唯一お茶を出して頂いた、高齢をものともせず、とてもお元気な材木店の社長からお声を掛けていただくのです。

それは、分譲住宅、つまり建売の販売でした。現場は大阪市街で駅からは歩いて10分位なのだが、周りにまだ田畑も点在している地域で、総戸数20戸の現場でした。お声掛けいただいた社長の為にも、自分の為にも「絶対にがんばるぞ」の決意で臨んだのですが、少しのブランクだったのに、お金も少ししか残っておらず、チラシを打つにも現場事務所を建てるにもお金が足りず、、最寄り駅から現場までは手作りの矢印の看板を付けて回り、現場事務所はテントを借り会議用テーブルと折りたた椅子でお客様を迎える私に、社長も「おいおい、大丈夫か?」と苦笑いされたのを覚えている。

それでも、3棟のモデルハウスが完成するころには半数を売却し、間もなく完売することとなる。社長にも大変喜んでいただき信頼を得ることとなり、次の現場も準備して頂くこととなる。

そして建売住宅25戸の現場、18戸の現場と順調に完売した頃、社長から「次の現場が決まらないのでその間、私が所有する空テナントビルの1階で飲食店をやったらどうか」とのお誘いを受ける。高齢の社長は、仕事が無ければ食べていけないと私の身を案じてくれたのと、自分が若ければ挑戦したい自分の夢を、私に託したかったのでしょう。

私も興味があったので、思いを受け入れさせて頂き、手打ちうどんの「琴屋」を開店、水道局前で近くに消防署、警察署、市役所などが点在する地域で、当時は手打ちうどんの専門店は珍しく、行列ができる大繁盛店となったのです。

また、忙しいのは嬉しいのですが、手打ち職人さんなどの人材に苦慮した時期も有ったのです。それらをやっと乗り越え、順調に営業が安定しだしたころ、社長の知人で農業協同組合の理事をされている方がお二人訪ねてこられるのです。

お話は、私の営業力を評価して頂いたようで、「分譲住宅と建売業を柱として不動産業の会社を設立するので、力を貸してほしい」とのこと。社長にも相談し快諾を得、「琴屋」を売却し支度金まで頂き、事業に参加し不動産会社役員と取引責任者を兼務する事となるのです。

時期も良かったのでしょう、事業は驚くほど順調に推移し、地元でも名の通った優秀な企業へと成長を遂げたのでした。

間もなく、自らの不動産業も「大朋建設」「タイホーハウジング」と社名も改め、本社と建築作業場を構え営業を開始することとなるのです。「時に27歳」

                   

 

大朋建設本社建築作業場

 

 

事務所開き時の様子

 

 

仕事も順調で、自社で土地を購入し建売住宅を建設し完売する。

また、建築業では増改築の仕事にも力を入れ、朝早くから広告の貼り看板や置き看板、「増改築ならタイホーハウジングへ」を市内各所につけて回るのです、おかげで仕事も増え順調に推移する。そして軽食喫茶店3店舗も同時期に順次オープンしたのでした。

その後、若かった私は車もアメリカ製の特注のカマロのラリースポーツに乗り、お世話になったナイトクラブにも、お客様として訪れホステスの方々に大変喜ばれ、お世話になった女性を指名させて頂き、ほんの少しだけですが恩返しできたのでした。

 

そして、念願の新居も完成に近いころ、かねてから自宅にはお仏壇をと思っていたので地元の仏壇店に相談に訪れたのだが、店主の方に「若いのにお仏壇とは心掛けが素晴らしい」とお褒め頂き、色々とお話ししていくうちに予算オーバーのお仏壇を購入する羽目になる。

この時は仏壇店社長との単なる出会いに過ぎないのだが、後に人生の転機になる出来事の前兆だったのです。