『為に生きる』

第三話「東京へ。そして出会い」

東京へ。そして出会い

20歳を過ぎると、独立心と言おうか、何か生涯をかけてする仕事、商売を見つけるぞという気持ちが芽生えてきて、その思いがピークに達した時、貯めたお金をもって東京へと向かうのです。自分自身が決断して旅立つのですがなぜか寂しく、むなしく、新大阪駅では涙を流す母を見て、私自身も涙ながらに「顔向け出来るまで帰ってこない」と心に決め東京へと向かったのです。

 

東京では千歳船橋と言う駅から歩いて15分位のアパートに移り住みます。

そして、まもなく女子大に通う女性と知り合い同棲することになります。初めての経験で本当に楽しい毎日で、バスに乗って二つ目の停留所から歩いて5分位の所にある銭湯に二人で出かけ、彼女が出てくるのを待っている、まるで南こうせつの「赤ちょうちん」そのままの生活でその歌を聴くと懐かしく、楽しい思い出がよみがえってきます。

春休みで彼女が北海道の実家に帰ってしまうと、その翌日から丸二日間、高熱にうなされ寝込んでしまいます。

実は上京してから東京の水が合わなかったのか、時折食事を戻したりして体調がよくなかったのです。

「このままではだめだ」と一大決心した私は荷物をまとめアパートを引き払い、お金も無くなっていたので鈍行列車に乗って大阪へと帰ってくることになります。

仕事をするなら、商売をするならやはり、地元大阪と心に決め、夢破れ大阪に戻ってきた私に母は「恥ずかしげもなく、よう帰ってきたね、しかしその決断をしたのは偉い。」と言って暖かく迎え入れてくれたのです。

 

大阪に帰るとすぐに体調も回復、新聞広告の「営業マン募集、優秀者には車一台贈与」の大きな紙面の人事募集に魅せられて応募し、面接に向かうのです。募集内容からして大企業を勝手に想像していた私は、会社がある小さなテナントビルの前をウロウロ、面接会場の貼り紙を見つけましたが、「えっ」このビル、おまけに階段で3階、社長、専務、女子事務員の三つのデスク、営業マンは会議用テーブルに折タタミ椅子というような小さな事務所を見て、予想を見事に裏切られガックリ。

それでも面接は和やかに進み、「本当に車が贈与されるのですか」と尋ねると社長はニコニコしながら、「がんばったら自分で買える」と一言。なんか騙された感じだが大阪らしい。

よし、この会社、この社長にかけてみよう、即採用され次の日から働くことになる。

 

仕事は主に奈良県の住宅地の分譲で総戸数150もある大きな現場で、それ以外にも不動産の仲介などを業務としていました。仕事内容は魅力的で、大いにやりがいを感じ、胸が躍ったのを覚えています。在籍期間中は6人の営業マンの中で営業成績はトップを譲ることは有りませんでした。それは出勤時間の早いものから順番にお客様の問い合わせの担当になるシステムがあったからです。

私はいつも一番に出勤しているので、問い合わせが6、7本あれば1日2本の担当を得られるのです。私はその問い合わせ頂いたお客様の家にその日の夜には訪問し、ご説明を重ね信頼関係を築いておいたのです。

そうすると、現地案内の日には当然のように私指名で来てくださって、現場に待機している他の営業マンは接客することが出来ません。私自身も物件に惚れ、夢をお話しさせて頂いておいたので、ご契約頂くのに時間はかからず成約率も非常に高かったのです。

おかげで、入社4か月目で乗用車購入の頭金が出来て、ローンですが、当時人気の乗用車スバル1000を購入することが出来ました。

 

3年目に入る頃、分譲の現場も完売が近くなり、宅建免許をすでに取得していた私は独立を申し出るのですが、会社からは不動産のスポンサーや金主様など、可愛がって頂いていたオーナーの方々の会社への一年間の出入り禁止を申し渡されたのです。

 

不動産を一から教わり、お世話になった方々との約束ですので当然のように独立を遅らせたのですが、収入は途絶えます。

時に23歳。

 

 

初めて買った車 スバル1000