『為に生きる』

第一話「生い立ち」

生い立ち

昭和20年8月3日、疎開先の兵庫県加古郡(現在の明石市)で母、嵜本コトの次男として生をうけました。

姉二人、兄一人の末っ子の私ですが、小学生のころから、母と兄と私の3人家族での生活が当たり前のように続き、年の離れた姉二人は自立して別に生活をしていました。

昭和25年 戦火に見舞われた自宅の神戸に戻ることなく、母、兄、私の3人で、大阪の地に引っ越ししてまいりました。

そこは、下町特有の人情味あふれる土地柄で、不自由はないですが、風呂もなく6軒長屋の一角で小学校中学校、高校と過ごすのですが、小学校5年のとき、事情があって2度ほどしか会ったことのない父が他界したのを知りました。

私たち、3人家族は姉からのわずかな仕送りと母の貯えで生活していました。

 

母、嵜本コトは明治45年生まれで、兵庫県は宝塚市内に多くの田んぼを所有していて小作人といわれる人たちに貸しており借家も数軒所有する裕福な家庭に育ち、年頃の娘時代には神戸の住まいから宝塚へ家賃の集金に訪れ、コトちゃんコトちゃんと可愛がられたそうで、何不自由なく育ったようです。そして親の勧めで結婚し、姉2人の母となりますが、その義父というのが大変な道楽者で手切れ金まで渡し離婚することとなるのです。

その残務処理に訪れた弁護士事務所で同じく妻を亡くして税務の手続きで相談に来ていた私の父に出会うのです。

 

父は大きな冷凍倉庫を神戸と尼崎の二か所で所有し、国道沿いには1200坪ほどのテナントの市場を経営するほどの実業家でした。

そして、昭和15年に兄が生まれ、5年後には私が生まれます。

しかし、私が生まれてしばらくすると父が病に倒れます。

それと同時に父の事業も不振に陥り、そのつど母が所有していた財産やお金で支援したそうです。おかげで父が亡くなったころには母は財産のすべてを無くしていました。

しかし、母は常に言っていました。「私は、財産は無くして何も無くなったけれど、それに代わる、いやそれ以上の財産を父から頂いた、それはあなたたち2人の息子だ」と。本当にありがたいことで、それを思うと、この世に生を受けたことを、心から感謝し母の為に、人生を大切に全うせねばと、心から思うのでした。